Highlight
みどころ
プロローグ
京都に生きたウィーン人
フェリーツェ・[リチ]・リックスは、1893年に、ユダヤ系の実業家ユリウス・リックスと妻ヴァレリーの4人の娘の長女として、当時オーストリア・ハンガリー帝国の首都であったウィーンで生まれました。裕福でリベラルな生活環境のなか、姉妹は芸術的素養を身につけ、リチ同様に一番下の妹カテリーナ[通称キティ]も後にウィーン工房の一員として活躍しています。
ここでは、リチのポートレートやスケッチブックなど、ウィーンと京都、2つの街を生きた彼女の姿が感じられる資料を、展覧会の導入としてご紹介します。

撮影者不詳《ポートレート:
上野リチ・リックス》1930年代
第Ⅰ章 ウィーン時代
ファンタジーの誕生
リチは、私設画塾などを経て、1912年にウィーン工芸学校に入学しました。そこでテキスタイル、七宝、彫刻を学ぶと同時に、建築家ヨーゼフ・ホフマンのクラスに入り研鑽を積みました。
1917年にウィーン工芸学校を卒業したリチは、ホフマンの熱心な誘いに応じ、彼がコロマン・モーザーらと1903年に設立したウィーン工房の一員となります。ウィーン工房でリチは、1910年に開設されたテキスタイル部門と1911年開設のファッション部門を中心に、さまざまなデザイン分野で精力的な制作活動を行いました。工房参加当初のデザインには、恩師のホフマンや上司であるエドゥアルト・ヴィンマー=ヴィスグリルやダゴベルト・ペヒェの影響が感じられますが、徐々に、より柔らかで自在な描線と多彩な色調で花や鳥などのモティーフを表した、独自のデザイン世界が花開いていきます。
本章では、まずウィーン工芸学校の教員や学生の作品によってリチが学んだ工芸学校の様相を、そしてホフマンやモーザー、そしてペヒェらの作品によって初期ウィーン工房が世に問うたデザインの新たな潮流を振り返ります。そして、テキスタイル部門とファッション部門を中心に、リチのみならず、リチの妹であるキティを含むウィーン工房の女性デザイナーたちが生み出した、当時のウィーン最先端のデザインを紹介します。
![プリント地デザイン[木立]](/static/high-kodachi-c5e05d0adebcf1dc0ee6ce20a0103728.png)
《プリント布地デザイン[木立]》
1925-35年頃
第Ⅱ章 日本との出会い
新たな人生、新たなファンタジー
1900年前後のウィーンで、新しい芸術の在り方を模索する人々の注目を集めていたのが、日本の美術・工芸品でした。
ウィーン工芸学校で教え、ウィーン工房を立ち上げたヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーも、自らの教育・制作活動に日本の芸術作品を熱心に参照しました。その中でもよく知られているのが、オーストリア応用芸術博物館に約8000点収蔵されている日本の染型紙でしょう。リチも、このような環境下で日本に対する関心を育んだと考えられます。そのリチが、ホフマンの建築設計事務所に在籍する日本人建築家上野伊三郎と出会ったのは、1924年のことでした。翌年二人は結婚し、1926年に、伊三郎の郷里である京都に移り住みます。そこで建築事務所を開設し、二人協働して個人住宅や商業店舗の設計・内装デザインを手がけました。その代表的事例が「スターバー」です。
京都での活動と並行して、リチは定期的にウィーンを訪れ、引き続きウィーン工房の一員として、ますます多彩な作品を手がけます。1929年にウィーン工房設立25周年を記念して刊行された作品カタログに掲載されたリチ作品の多さを見れば、彼女がいかに重要なデザイナーであったかがわかります。リチは、1930年にウィーン工房を退職しますが、来日してからそれまでの4年間は、リチのデザインが確立した最も実り豊かな時期だったと言えるでしょう。
本章では、日本とウィーンそしてリチの繋がりが見て取れる作品を概観したのち、結婚後のウィーン工房でのリチの充実した仕事をご覧いただきます。そして来日後の活動を、伊三郎との協働という視点からご紹介します。伊三郎は、インターナショナル建築会を創設し、ブルーノ・タウトを日本に招聘したことで知られていますが、タウトの要請で1936年に群馬県工芸所所長に就任し、併せてリチも嘱託職員としてデザイン制作に従事します。モダンデザインの二つの流れが交錯した群馬での成果にもご注目ください。

《ウィーン工房壁紙:そらまめ》 1928年

《イースター用ボンボン容れのデザイン(2)》
1925-35年頃
第Ⅲ章 京都時代
ファンタジーの再生
1930年にウィーン工房を退職したリチは、1935年に京都市染織試験場の技術嘱託として採用され図案部に配属されます。
翌年からは群馬県工芸所の仕事と掛け持ちしながらも1944年まで、主に日本占領下の外地へと輸出されるプリント布地や刺繍製品などのデザインを手がけました。これら朗らかで色彩豊かなデザインが、戦時下で外国人として日本に暮らすリチによって生み出されたことに驚かされます。
終戦後は、新しい時代の要請に応えるべきデザインを模索する京都の繊維会社や七宝製作所との協働から、さまざまな作品が生み出されました。上野建築事務所は戦後すぐに閉鎖されますが、わずかながらも内装デザインの仕事も手がけています。しかし、戦後リチが最も活躍した場所は教育の分野でした。京都では長きにわたって図案教育の伝統が培われてきましたが、それは本格的なインダストリアル・プロダクトを前提にしたものではありませんでした。この分野の基礎教育充実のために、リチと伊三郎を教員として招聘したのが京都市立美術大学、現在の京都市立芸術大学です。
![プリント服地デザイン[象と子ども]](/static/top-zou-b7960d1377005764ed77dd4dedff8fba.png)
《プリント服地デザイン[象と子ども]》
1943年

《七宝飾箱:馬のサーカスⅠ》
1950年頃[1987年再製作]

《プリント地刺繡ハンドバッグ・デザイン》
1935-44年
彼らの元からは、サントリーの広告を手がけた柳原良平など数多くのデザイナーが巣立つことになります。そしてリチ晩年の代表作が、建築家村野藤吾の依頼で制作した、東京日比谷にある日生劇場の旧レストラン「アクトレス」の壁画です。アルミ箔に覆われた壁・天井一面に軽やかかつ色鮮やかに鳥が舞い花が咲き乱れる空間は、まさにリチが提唱した「ファンタジー」が具現した空間だったと言えるでしょう。リチと伊三郎は、大学を定年退職後もインターナショナルデザイン研究所(後にインターアクト美術学校と改名)を開設し、生涯人材の育成に尽力しました。
本章では、戦後のリチの活動を、「アクトレス」壁画の一部再構成を含む数多くの作品・資料によってご紹介します。
![プリント服地 [野菜]](/static/high-yasai-a3801b4dcd56193cb257bbb42ac74bd3.png)
《プリント服地 [野菜]》 1955年頃[1987年再製作]
エピローグ
受け継がれ愛されるファンタジー
1967年、リチは自宅で74歳の人生を閉じました。
しかし彼女のデザインは、村野藤吾や教え子たちによって、様々な場所で生かされました。
本展の最後に、都ホテルやプリンスホテルそしてカフェ・レストランで室内装飾に用いられたクロスやタイルなど、彼女の没後も我々の身近にあったリチ・リスペクト・デザインをご覧いただきます。
![クリスマス・オーナメント・デザイン [天使]](/static/high-tenshi-589751152511ce207333b9177a535a20.png)
《クリスマス・オーナメント・デザイン [天使]》
制作年不詳

《都ホテル京都(現:ウェスティン都ホテル京都)
旧貴賓室壁用クロス:花鳥》、1970年